厭世加速器プロジェクト

大強度良心ビームで性癖の内部構造を探る

「謎の少女、再び(迷宮)」とは我々にとって何であったか

本稿は以下の節より成る。また、本記事全文は2022年冬に出版予定の小説同人誌『迷宮のほとりで』(仮題)に収録される。

 

「謎の少女、再び(迷宮)」とは公的には何であるか

 ポケモン映画23作の歴史の中での最高傑作を決める試みはこれまでに何度も行われており、再放送機会の均等などの斟酌を抜きにして純粋な総合点で選ぶとすれば『ミュウツーの逆襲』(1998)*1が王座を譲ることはもはやない。次に来るのは『幻のポケモンルギア爆誕』(1999)*2か、あるいは『ココ』(2020)*3だろうと思う。シナリオの面白さ、メッセージ性とエンタメ性とのバランスにおいて、故・首藤剛志氏の脚本によるミュウツー・ルギア・エンテイ*4の三作に比肩する作品は長らく現れなかった。
 しかし、本稿をお読みの諸賢は既にご存知のはずだ。ポケモン映画の評価を決める要素はそれのみではないことを。五分に満たない映像と音楽が、時として映画全編の歴史的価値を決定付けるということを。

 

 2002年の映画『劇場版ポケットモンスター 水の都の護神ラティアスラティオス*5は、そのような奇妙な評価を長くポケモンファンから受けている。興行収入は低い。話の筋書きは既に前作で確立していた「伝説のポケモンを狙う悪人→機械が暴走してみんなで止める」という、その後十五年間続くマンネリの枷。アニメにおいてポケモンが死ぬ最初のエピソード。それにもかかわらず、今日まで異常な支持を受ける伝説の傑作である。一つのシーン、いや、一つの音楽が、映画の中にあったからである。

 中古価格の高騰しているこの映画のサントラ*6上の曲名を取って、その音楽及びシーンは「謎の少女、再び(迷宮)」(英題:Search for the Girl)と呼ばれている。

 この曲は劇中で三度アレンジされて繰り返される。一度目はサトシがアルトマーレの町で謎の少女に出会うシーン、二度目はサトシが謎の少女を追って迷路のような路地を走るシーン、三度目はアルトマーレを去るサトシたちのもとに謎の少女が走ってくるシーン。「謎の少女、再び(迷宮)」とは二度目のシーンの曲名だ。これら、謎の少女にまつわる一連のシーンこそが「ラティアスラティオス」のハイライトと言ってよい*7

「謎の少女、再び(迷宮)」は美しい曲であり、美しいシーンである。だが、美しさだけが人気の理由ではない。これらのシーンには、ポケモンというコンテンツ全体の根幹に迫る、今日のポケモンの方向性を強く決定付ける、それでいて公式に明言することはできない、ある要素が深く絡みついている。本稿ではそのことについて書き留めておこうと思う。

 

タケシは何を隠蔽したか


ラティアスラティオス」はキスシーンで終わる。謎の少女の来訪からエンディングの入りまでの流れが風景や音楽と相俟ってあまりに美しい名シーンであり、このとき桟橋に走ってきた少女がラティアスなのかカノンなのか分からないように徹底されていることが今日まで続く大激論の火種となっている*8。筆者の知る限り、サトシにキスをしたキャラクターには他にフルーラ*9とセレナ*10、その前にムサシとコジロウ*11がいるが、謎の少女のキスは他四人とは印象を全く異にする。この行為の背景にある動機や込められた感情が、全く不明だからである。

 

 謎の少女をラティアスと見るかカノンと見るかによって、キスの意味合いは大きく異なる。ラティアスと見る場合は単純に好意の発露と思えばよく、サトシとピカチュウを描いた絵をどういう経緯で持ってきたのかという些末な問題だけが残る。対してカノンと見る場合は、カノンがサトシに好意を抱くことに説得力を持たせる描写が劇中にないために、ややアクロバットな解釈を必要とする。劇中に描写されなかった心の動きがあるとする説、アルトマーレではキスがカジュアルな挨拶であるとする説、事件解決からサトシ一行の出立までに数日ありそこで好意が育まれたとする説。筆者自身は、カノン説を採るとすれば「ラティアスへの同一化の試み」として説明するが*12、ともあれいずれの説も決定的ではない。それは、ラティアス/カノン論争に対して我々一人一人の取る態度が、そのまま我々自身のキス観を反映していることを意味する。そして現代日本において、キス観とは異性関係観や性愛観とほぼ同義であろう。

 この最後のシーンにおいて、少女は一言も音声言語を発しない。サトシもキスによって沈黙してしまう。そのため鑑賞者は、このキスにどういう意味があるのか、このシーンをどう解釈すればよいのか、という疑問符に、誰かが言葉を発するまで縛られ続けることになる。何しろ劇場で映画を見ている客の多くは、親に連れられてやってきた小学生から中学生なのである。キスの意味を解釈するための材料も十分に持っていなければ、親が横にいる手前の気まずさもある。そこで、美しい沈黙を破るのはカスミとタケシなのだった。

 

「――今のは、カノン……? それとも、ラティアス……?」
「さあ……でも、いいなあ――!!」

(『劇場版ポケットモンスター 水の都の護神ラティアスラティオス』)

 

 カスミの台詞は、鑑賞者が当然抱くはずの「どっちなのだろう?」という疑問に寄り添い、続くタケシの台詞は、答えの出ない内面の問いへと向かおうとしていたキスシーンを、「少女側の動機が何であれ、少年は少女にキスされると嬉しい」という単純かつ一般論的な価値の話へと落とし込んで、このキスに一応の着地点を与えている。かくして、劇場に来た親子は際どいシーンがボケでお茶を濁されたことに安堵し、家に帰ってから親が「サトシちゅーしてもらってたねえ~~~」と子を小突き回す可能性も幾許かは減じられるわけだ。そこに子供向けアニメたるのメタな配慮がある*13

 

 ところが、である。タケシの身を挺した努力にもかかわらず、「このキスはなんなのだろう?」という疑問は鑑賞者の心から消えることはない。むしろ綺麗にオチがついて終わるからこそ、「よくわからなかった」という評価の箱に放り込まれて忘れ去られることなく、「いい映画だったが、何か引っかかっている」という形で印象に残り続けることになる。子供の方がこのような引っかかりを感じやすい。なぜなら、第二性徴期に差し掛かる頃の子供においては、性衝動はキスのような具体的な行為へと向いているものではなく、ある種の対象を前にした際に起こる言語化されないモヤモヤとして経験されるからである。言い換えれば、彼らはタケシの台詞が表層的な行為だけに言及した道化の発言であることを、彼ら自身の性の肌感覚がそれほど単純でない故に、敏感に感じ取るからである。キスが欲動に関わる「なにか」を象徴していることは知っているが、その「なにか」が何であるか、彼らはステレオタイプな言葉(恋愛、性行為、モテ……)による説明に実感を持たないのである。

 かようにタケシは、誰かも分からない少女からのキスの「意味の分からなさ」を、少女のパーソナリティから切り離された俗なお色気の文脈によって隠蔽する。しかし、それは非難を受けるべきことではない。彼は道化を演じることによって、その裏にある分からなさを追いかけようとする子供の思索を、性衝動を「行為」と結びつけることに慣れてしまった親の目から隠蔽しもするのである。子供が世界と人間に対する洞察を深め、己を知って乗りこなすために、この孤独な思索は必要なプロセスである。

 

 さて、とはいうものの、キスの相手が誰か分からないということが、具体的な行為をあまり指向しないはずの子供にとってそれほど深刻なことなのだろうか。然り。この「分からなさ」こそは、先に述べた「欲動に関わる『なにか』」の第一の性質なのだ。それには第二次性徴期以前の、前‐性器的(pre-coital)とでも呼ぶべき欲動の構造が深く関係している。そして、その構造故に、ただ迷路を走り回るだけの「謎の少女、再び(迷宮)」のシーンが、キスシーン以上に観た者の印象に残り、伝説としてポケモン史に残るのである。子供の欲動の構造について、まずは「ラティアスラティオス」から一歩引いた一般論を、次節では述べることにしよう。

 

少女が謎であるとはどういうことか

 

 我々の興味が少年が少女を追うシーンにある以上、ここで性欲について論じるのが自然な流れだろう。しかし、そもそもある欲望や感覚が性的であるとはどういうことか、果たして定義することができるのだろうか。性欲の最もよく知られた表現は性交だが、「性交をしたいという感覚」は人間の心にとって、特に十歳前後の児童の心にとってどこまで基層的なものだろうか? あるいは他の動物においてさえ、本能としてあるのはもっと単純かつ抽象的ななプログラムで、それが異性のいる環境の上で演算された時に結果的に交尾という解に落ち着くだけ、という可能性はないのか? こうして考えてみれば、性欲を性交への欲望として捉えるのは的を射ないことが分かる。誤解を招きやすい性欲という言葉を避けるために、以降は専ら「性衝動」という語を使うことにする。

 

 性行為への欲望と異なり、身体の反応は性別・年齢にかかわらずある。小学校中学年の男児ともなれば勃起をする。幼児が自分の性器を触って快感を得ることもしばしばある。登り棒や鉄棒で会陰が圧迫された時に、くしゃみをする直前の鼻の奥のような疼きを感じたことのある人もいるはずだ。しかし、それらの反応はただの肉体の快楽ではなく、あるイメージによって増幅されたり、ある心理的効果を引き起こしたりもする。この、性感と連動しているイメージが、単純に性行為や異性の身体のイメージだけではないことが問題を複雑にしているのだ。

 例を挙げれば、子供の頃に見た特撮番組で、ヒーローが戦いの中で苦境に陥り、拘束されたり電撃を受けたりするシーンで興奮を覚えたという証言は多く、「ヒーローやられ」「ヒロインピンチ」という創作のジャンルをなすまでに至っている。また、少年犯罪者の生い立ちの中にしばしば、動物を殺して解剖することで快楽を覚え、時には射精に至ったという記述が登場するのはどういうことなのか*14。あるいは外性器以外の場所のいくつか、例えば乳首や前立腺を刺激すると陰茎や陰核とは異なる切ないような気持ちになることも無視できない*15*16。これらの例はどこが共通しているのだろうか。

 精神分析の祖であるジークムント・フロイトは、母親がいなくなった時の幼児の行動を観察した結果、人間は不安や恐怖を与えるものに自ら近づいていこうとする性質を持っていると考えた。フロイトはそれを「死の欲動タナトス)」と呼んで生の欲動(エロス)と対置したが、この死が表すものは生まれる前の状態への退行に近い。死の欲動は自他に向けられる攻撃性として表れるとされ、サディズムマゾヒズムの動因とも考えられた。

 その後、精神分析家のジャック・ラカンはこれを言語との関係において捉え直そうとした*17言語化されないなまの事物、言語の世界の破れ目に惹きつけられるのが人間だとしたのである。なぜなら人間は言葉を習得すると同時に、母子一体の幸福な状態を失ってゆくからだ。人間は世界を認識するために言語に頼るが、無意識の領域には言語によって体系化されなかった母子一体の時期の身体感覚が抑圧されたまま残っている。言語によって世界を体系化するとは、曲線でできた適当な図形を、長方形で埋めることによって近似しようとするようなものだ。コンピュータのように論理で扱うには曲線をそのように表現せざるを得ないが、人間はそれが何かを欠いていることを知ってしまっている。人間にとっては、身体に由来する感覚が、ここで欠けたものにあたる。

 言語によって分節されていない世界に接近することは、社会的な個として確立された自己が輪郭を失うことを意味し、不安や恐怖を引き起こすが、それでも人間はそこへ向けて欲望を抱く。こう考えることにより、明確な攻撃性を伴わない心理現象も、死の欲動によって分析できるようになった。当然、第二次性徴期以前の子供にも適用できる。むしろ性行為という具体的な矛先を持たず、言語の獲得からも間がない分、子供においてこそこの性質は顕著に浮かび上がると言えるだろう。

 

 筆者は、性衝動を理解するために必要な概念はこれで既に出揃っていると思う。しかし、用語を使いやすくするために若干の注釈を施したい。フロイトラカンの時代には、通常の性交か、そこから大きく外れて治療の対象になる極端な執着のみが問題になったかもしれない。しかし二十一世紀の今、世の中には実行不能な行為すら描く多種多様な性表現が溢れ、それだけ多様な嗜好の持ち主がいることを示している。我々はそのできるだけ広い範囲に妥当する性衝動の本質を探り出したいのである。

「言語の外側」という表現に、筆者は「知覚のオーバーフロー」という副題を与えたい。そこには、大きなものに身を任せること、取り返しのつかないことが起こること、物の境界を破って中身を見ること、何かが無限に続くこと、などの要素が含まれる。そのような秩序侵犯のイメージが持つ不安と一体の誘引力こそが、性器以前にある性衝動の本質に他ならないと筆者は考える。逆に既に性感として認知されている感覚を求めて自慰をする時も、こうした大きなものへの没入や破滅の擬似体験を望む心があり、それに従ってメディアや空想を選んでいるように思えるのである*18

 社会通念上で性的なものとして認知されている、性器を使った他者との性交に伴う欲望や快楽も、この拡張された性衝動の定義に収まる。恍惚感、粘膜、体温、体重――全て自他の境界を曖昧にするものだ。また女性の乳房や臀部が「丸く大きい」形をしているのも、圧迫や包容、あるいは途切れずに続く触感のイメージを想起させ、結果的に生殖に寄与している。取り返しのつかないことが起こること・物の境界を破って中身を見ることと、大きなものに身を任せること・何かが無限に続くこととは、持続性/一回性という点で異なるように見えるが、秩序の領域から非秩序の領域へ踏み出すことに絡んだイメージであるという点で同じなのである*19。いわゆるサディズムマゾヒズム、男性型オーガズムと女性型オーガズム、ドーパミン型の快楽とオキシトシン型の快楽の違いに対応すると言えるかもしれない。

 先に上げた、性行為以外のイメージから得られる快楽も同じイメージによって説明がつく。ヒロインピンチは暴力及び敗北の「あってはならなさ」、そしてボディスーツの滑らかな質感が想起させる途切れのなさと、肉と布の間で起こる圧力の拮抗によって。動物の解剖も同じく道徳的禁忌だが、物に切れ目を入れて中身を見ること自体が、世界の表層を覆っているロゴスの見せかけをめくることに対応する(中身が粘質の生体組織であるならなおさらだ)。乳首や前立腺の刺激が陰茎の刺激と異なる切ない気分を引き起こすことも、性器以前の快楽が不安と不可分であることを示している*20。さらには、高い所から下を見下ろした時の怖さや、ある種の植物の種や蛙の背中を見た時の気味の悪さも、よく似た快感をその裏に伴ってはいないか。一般的に性感や性行為に含められているものからはずいぶん遠ざかったが、依然としてそれらと地続きでもある。

 これらの感覚が射精などの生殖機能と結びついている理由は分からない――体幹の緊張が骨盤底筋群の収縮となってその周辺の神経を刺激するのか、それとも脳において恐怖を司る領域と性行動を司る領域の間に何らかの緊密な情報伝達があるのか。元々別々の機能だった情動と性行動が、進化のある時点で(恐らくは性行動が後乗りする形で)連動し始めた可能性はあると筆者は考えている。少なくとも、「死を前にした本能が生殖を促す」という俗説のうち「死を前にした」の部分は、文字通りの意味よりも広く、想像上の危機なども含んだものとして解釈されるべきだろう。

 

 そして、少年にとっての少女も、世界の外側の不可知へと繋がる穴として感じられる。第二次性徴期に差しかかる頃の少年にとって同年代の少女は、生理的感覚と社会的規定の両面において彼のそれまでの世界を脅かす存在であり、故に誘引力を持つ。凹凸の少なさに目が滑る、伸びやかな四肢を持つ者。年齢につれて遊び方が変わったことで忘れ去られようとしていた、生物の柔らかさ=不定形さの再来。少し前まで何の差もなかったがために、僅かな違和までが目につく。また社会的には、大人の世界という未知の領域にいち早く足を浸している者。さらには、「触れてはならないが、触れられるよう努力しなければならず、しかし適切な努力の道筋は明かされていない」というアンビバレントな扱いを求められている対象でもある。男女の性的発達段階にずれがあり、また性差が表れ始めてから性交という一つの指針(依然として禁じられており、適切な道筋であるという保証もないが)が示されるまでの間に数年の遅れがあるがための、宙に浮いた時間である。サトシはそこにいる。

 社会的規定という面では、この五十年あまりで変化した社会状況に由来する、現代に特有の少女観もそこに働いているのかもしれない。編集者・漫画評論家ササキバラ・ゴウ*21によれば、1970年代頃から男性が女性に向ける欲望の暴力性が当の男性によって自覚され始め、それが反転して「傷つけられることのない美少女」という造形/ストーリーラインを生み出し、美少女への神聖視と男性の透明化を押し進めたという。この構造は「世界の外側としての少女」というイメージに補足説明を与えてくれるものであり、現実の社会における男女関係をもある程度反映しているだろう。日本でストーカー行為等の規制等に関する法律が制定されたのは2000年であり、関係を築こうと試みること自体の孕む暴力性が万人の知るところとなった。もちろん、サトシの行為も付きまといである。

 世界の外側の象徴として少女のイメージを用いる手法は、「セカイ系」と呼ばれる作劇ジャンルにおいて最も顕著になった。「傷つけられることのない美少女」というイメージによって加速された外部性が、科学知識の普及によって地球や宇宙というほぼ上限の規模に達したことがセカイ系の特徴だと筆者は考える。小説家・評論家の笠井潔*22によってセカイ系の代表例として挙げられた『ほしのこえ』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』が全て「ラティアスラティオス」と同じ2000年代前半の作品であることは偶然ではないはずだ。その後「ヤンデレ」ジャンルの出現によってサブカルチャーは再度の屈折を経たものの、2020年代に至っても基本的な構造は変わっておらず、変化をもたらす要因もないように筆者には思える。

 もちろん、快楽や性行為、あるいは少女に追いつくことによって世界秩序の外側そのものに触れられるわけではない。むしろ触れられないことを隠蔽するために、具体的な対象や行為が世界の破れ目の場所に据えられているに過ぎない。しかし、世界に開いた穴に一度具体的な形が与えられれば、人はそれを通して、自分が遥か昔に置き忘れてきたもののことを思い出すのだ。性衝動の手触りは郷愁に似ている。

 

 この節で述べたことは、ポケモンから離れた性衝動の一般論だ。迷宮のように、日の当たる世界の表側では起こらないことが起こるかもしれない場所で、言葉で自分を満足に説明してくれない少女を追いかけるシチュエーションには多くの先例があり、この構図が人々を惹きつけてきたことを窺わせる。

 しかし、「ラティアスラティオス」では他に付随するあらゆる要素が、少女という舞台装置が持つ求心力を増幅している。次節ではそのことについて、つまり少女がポケモンであることの意味について述べ、「なぜ『謎の少女、再び(迷宮)』がこれほど強烈な印象を残すのか」という問いへの一つの答えとしたい。それは必然的に、ポケモンとは何であるか、という問いについて論じることにもなるだろう。

 

サトシは何を追いかけたか

 

 子供たちは言語以前の世界へ惹きつけられる衝動に大人より素直であるため、子供の中から自然発生的に生じた遊びはそれ自体が往々にして、前節で性器以前の性衝動の特徴として規定した知覚のオーバーフロー的な快楽を伴っている。ポケモンを作り出した者たちはそのことをよく知っていたに違いない。

 ポケモンの原作であるゲーム、その最初のバージョンである「赤・緑」は、制作会社であるゲームフリーク代表の田尻智自身が少年時代に熱中した昆虫採集の体験をベースに作られたとされる*23。田尻氏がゲームボーイの通信機能を活用するにあたり、対戦よりもアイテムの交換を主軸に据えたこと、交換されるものとして生き物を選んだことがポケモンの始まりであった。ひとたびその方向性が定まると、自然の生き物を採集する遊びをモデルとして、捕獲・分類・飼育・競争、そして冒険の要素が肉付けされたのである。

 田尻氏によれば、「赤・緑」の開発当初には、自然に親しむ機会の減った子供たちにこのゲームの面白さが伝わるか不安に思いもしたという。しかし、結果としてポケモンの大ヒットを受け、子供の本当の衝動は時代や環境によって変わることはないのだという実感を持ったと、文化人類学者の中沢新一によるインタビューに対して述べている*24。そして中沢氏は著書『ポケットの中の野生』*25において、この普遍的な子供の衝動を、精神分析文化人類学の思考法を援用して解説している。精神分析は意識と無意識の関係について語り、文化人類学は近代科学に接しない人々が自然と向き合う時の仕方を観察してきた。自然と無意識は、共に言語で捉えきれないなまの世界である。正確には自然の驚くべき多様さが、そうした埒外なるものの存在を感じさせるのだ。

 

 自然は、まだみずみずしい無意識をかかえた人間の子どもにとって、ことばの体系がつくっている世界と、その外にあるのが感知される別の領域(異界)との間に広がっている、ひとつのインターフェイスの空間にほかならない。虫やザリガニや変わった植物のいる自然が、昔も今も子供たちを引きつけてやまないのは、それがことば(象徴化されたもの)とそれに組み込まれなかったものとの間に、一つのなだらかな連結の場所をなしているからである。

中沢新一ポケモンの神話学 新版:ポケットの中の野生』)

 

 自然の中を探検したり、生き物の体に触れたり、図鑑でその多様さに接したりするとき、人は実のところ、自身の無意識領域に渦巻いているなまの世界の記憶を感じ取っている。故に、そこに快楽の予兆を幻視するのだ。さらに中沢氏は、『スペースインベーダー』に始まるコンピューターゲームが子供たちを惹きつけるのも、自然が子供たちを魅惑するのと同じ理由によると説明する。曰く、インベーダーの出現と消滅、及び黒い筐体の画面は、

 

 そして、その「いない/いた」の繰り返される画面の表面こそが、薄い境界面となって、その背後には個体性を生み出し、またその個体性を吸い込んでいく潜在的なエネルギーの場があるような錯覚を、このゲームはあたえることができるのである。

(前掲書)

 

「個体性を生み出し、またその個体性を吸い込んでいく潜在的なエネルギーの場」とは、まさに不安と一体の快楽を与える言語以前なるもの、無意識領域に他ならない。ラカンはそれを「現実界」と呼び、それがロゴスの世界の綻びから顔を覗かせている場所を「対象a」と呼んだ。森見登美彦*26の言葉で言えば、〈海〉である。人間は現実界との接触を求めて対象aに惹きつけられるが、同時に言葉によらなければ世界を認識できないために、対象aの存在を感じるきっかけになった物や行為や感覚を対象aそのものであると錯覚する。あたかも、ドーナツを食べれば中心の穴に入れると思い込むようにである。こうして様々な執着や性癖が生まれる。

 自然の中で、あるいは図鑑の上で、不思議な生き物や入り組んだ地形に出会うと、人は自分の想像の及ばない不可知なるものがその奥にあると感じる。トンネルに何が隠されているか分からない、生き物がどこから来るのか分からない、他にどんな生き物がいるのか分からない時、不安と一体の快楽や興奮が生じる。コンピューターゲームにも同じ構造がある。画面の端から外側には未知の世界が広がっており、モンスターはどこからともなく現れる。そしてこれら新旧の快楽体験を一つに結びつけたのが、他ならぬポケモンだったのだ。

 自然そのものは定義することができないために、代わりに様々な環境に生息する動植物がその象徴とみなされる。同様にゲーム内の自然に対しては、ポケモンがその象徴となる。ポケモンは自然の生き物をモデルとして造形されており、それぞれの環境にそれぞれの姿と生態で適応している。何かの不幸の結果そこに怪物としているのではなく、住人として「いるべくしている」のだ。ナゾノクサは草地におり、ナゾノクサがいればそこは草地であると分かる。そしてまた、彼らが暮らしているゲーム内世界の自然が謎に満ちた場所であることをも彼らは示唆する。第一に、現実の生き物にはない不思議な力を持っている。タマゴができる瞬間を誰も見たことがない*27。未知の種が次々と発見される。草むらや洞窟の地面から際限なく飛び出してくることは、インベーダーが黒い画面の端から湧き出してくることと等価だ。つまり、ポケモンは野生動物であることによって自然界の象徴となることができ、同時にモンスターであることによって、その自然界が言語以前の世界を奥に隠し持った空間であることを暗示するのである。

 元来、モンスターを造形することは、対象aとの適度な距離を作るための有効な手段である。ロゴスの世界の外側に惹かれ過ぎれば社会生活を営めない、しかしその衝動を抑圧し過ぎれば生は味気ないものになる。抑圧し、見ないふりをすることによって、むしろ衝動に振り回されるようになることもあるだろう。対象aが掟破りのものであるなら、掟破りであるままに可能な限り可視化して、意識と言葉によって取り扱えるようにしてやるのがよい*28。モンスターや宇宙人はそのための格好のフォーマットだ。

 中沢氏はこのように生の世界を記号化して取り扱うやり方を、人類学者のレヴィ=ストロースの唱えた「野生の思考」という言葉を使って説明している。野生の思考とは大雑把に言えば、象徴と連想によってあらゆることを分類し、また操作しようとする、科学以前の思考法のことだ。事物を擬人化して理解しようとしたり、擬人化されたキャラクター同士の関係によって元の事物の間の関係を表現したりすることも象徴と連想の操作であり、野生の思考の典型的な表れと言える。言うまでもなく近現代の日本で高度に発達した知的技術である。

 中沢氏はポケモンについて、タイプの相性やポケモン図鑑オーキド博士モンスターボールの存在を引き合いに出してポケモン世界に働いている分類と言語化への動機付けについて語り、その後通信ケーブルを介した贈与論へと移っていく。その部分は本稿の趣旨から外れるため詳細には触れないが、重要なことはポケモン対象aの表象、つまり言語を超えた領域の代理者であるということだ*29。プレイヤーはそれとの接触がもたらす快楽を、いくつものガジェットによって、安全に繰り返し楽しむことができる。

 

ポケモン』では不思議な生き物との遭遇と、捕獲によるその「縮減化」が、くりかえしくりかえし反復される。そしてそのたびに、プレイヤーの無意識の「へり」の部分から出現して不思議な形や性質を持った「対象a」に姿を変えていく欲動にたいして、情動で接するのではなく知性によってそれをとらえようとする確かな反応が、私たちの中に育っていくのがわかるのである。

(前掲書)
 
 つまり、旅に出てポケモンを探すことは、言語によって把握している世界の「それが怪しくなる場所」に分け入って、自立の過程で失ったなまの命の実感を取り戻してゆく営みなのだ。ゲームの中に再現された擬似的な自然であっても、むしろゲームという媒体の特質を活かして効果的に、人は無意識の領域に近づいて身体感覚を呼び覚ますことができる*30。旅が現実界への探求であることを、サトシ自身があまりに純朴な言葉で語っている*31

 

‌ でもさ、行ってみないと分かんないぜ。

(「劇場版ポケットモンスター キミにきめた!」)

 

 加えて言えば、自然の生き物やポケモンの間にもとりわけ、言語以前の感覚や知覚のオーバーフローを想起させやすい造形というものがあるように筆者には思われる。例えばオタマジャクシや蛙のような湿って柔らかい生き物の体は、触ると気持ち悪さがあるが、その気持ち悪さと表裏一体の興奮をももたらすことは前節で述べた。滑らかな流線型をした水棲生物であるラティアスも、同じ理由によって、人間の性衝動に共鳴するのに有利な造形ではないだろうか。まず水棲であるということが、大きなもの・窺い知れないもの・人の還るべき場所と繋がっていることを思わせ、つるつるしたガラス質の体表は頸部の反り返った曲線と相俟って途切れない手触りを想起させる。体温が低いと明言されていることも、人間に対する異質さを強調している。露骨な人型をしたサーナイトや、まだしもヒトに近い陸棲胎生哺乳類型であるイーブイ系統とは異なる強みだと言えるだろう。そして、「心」「夢」「幻」という言葉で形容されることの多いラティアスラティオスは、同じ水棲生物であるミロカロスなどとも異なって、人間の精神の働きに深く関わっていることを示唆しているのである*32

 そのような存在が、少女と重ね合わせられている。人間に生まれつき備わっている、世界秩序の外側に強く惹かれる本能という観点から見れば、両者には元々相通じるところがある。そこで敢えてラティアスにカノンの姿をさせ、サトシにそれを抒情的な音楽の中で追いかけさせることで、観客たる子供に気付かせているのだ。ポケモンが性的であることを。少女がモンスターであることを。それに気付くとき、我々は否応なく、社会的動物の軛を超えた世界の内奥に隠された神秘を追っているのであり、同時に我々自身の無意識の深みへと肉迫しているのである。

 

 ここまでの議論を総括しよう。「謎の少女、再び(迷宮)」がなぜ特別なシーンであるのか、ということだ。

 映画の主なターゲット層である十歳前後の子供は、早ければ既に異性を意識し始めている。少年として少女を追いかける、追いついて何がしたいでもなくただ好奇心のままに追いかけるというだけで、男児のあるものはそのシーンを我が事のように見るだろう。追うという行為が、そこに欲動があることを暗示する。そして少女が言葉を発しないことは、少年に少女を追わしめている欲動が言語や社会以前に由来することを暗示する。迷宮とはロゴスの秩序が行き渡らない「奥行き」ないし「襞」であり、世界の破れ目が潜んでいるかもしれないと期待させる場所だ。至るところに水――無意識の不定形さと意識に対する異質さの象徴――が巡ってもいる。ラティアスが人型でない低体温の水棲生物であることも、異質さを際立たせると共に身体感覚を意識させる。

 そしてこれらのことに後押しされて、ともすれば恋愛や性行為という社会的・形而下的な価値にすり替えられてしまいがちな少女への憧れが、異形のモンスターに対して人類が普遍的に感じる魅力、世界の破れ目に飛び込んで己を無に帰したいという欲動と全く同質のものであることを、少女に化けたポケモンの存在が無言のうちに語るのである。自分が追いかけたものがエロスかタナトスかという謎は映画のストーリーが進んでも解消されず、どころか最後の最後になって頂点に達して終わる。それは子供にとって、まだ言語と社会によって整地されていない自らの心の襞の奥を覗き込む生々しい体験である。「謎の少女、再び(迷宮)」に絡みついているのは、性と死の手触りである*33

 

「ぼくは世界の果てに興味があるよ。でもたいへんやっかいだね」
「それでも、みんな世界の果てを見なくてはならない」

森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』)

 

「謎の少女、再び(迷宮)」とは我々にとって何であったか、という問いへの答えはこれにて得られた。しかし、この少女とポケモンの二重性は、少女キャラクターの担う意味を問い直したと同時に、ポケモンの側にも変質を余儀なくするものであった。最後にそのことについて述べよう。

 

我々とは「謎の少女、再び(迷宮)」にとって何であったか

 

 虫捕り体験から出発した原作「赤・緑」に対し、アニメ版ポケモンは異なる立場に拠っている。初期のシリーズ構成を担当した首藤剛志氏が後に明かしたところによれば*34

 

 ゲームをアニメ化するにはエピソードにドラマが必要になる。
‌ つまり、ポケモンを擬人化して描く。
‌‌ ‌アニメ『ポケモン』は、151種の、ポケモンという普通の人間とは違う形や能力を持った人間が絡むドラマなのである。
 ‌だれが脚本を書いてもそうなってしまうだろう。
 ‌僕も、そういうつもりで書いてしまっている。
 ‌とすると、アニメ『ポケモン』は、ポケモンと人間のいる世界とは言いながら、実は人間だけしかいない世界の話になってしまう。

(『WEBアニメスタイルCOLUMN シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家』)


 今まで我々が見てきた性衝動の観点からも、メディアによってポケモンの描き方にこのような違いが出るのは必然だと言える。モンスターは死の欲動に一時的に形を与えたものであり、言語の外側に由来するために、物語を担うことができないのだ。

 自然という未知を代理するものとしてやってくるポケモンと、言葉の外側に対して恐怖と郷愁の相反する感情を抱く人間との間のモンスターボールを介した緊張関係は、元々ゲームでしか成立し得なかったとさえ言える。ポケモン対象aの代理表象たらしめていた要素の一つは、草むらや洞窟の地面から予兆なく飛び出してきて痕も残さず消えてしまう「軽さ」だったが、アニメでは出現と退去の過程がある程度の解像度で描かれざるを得ない。また、アニメを一匹一話で百五十一話作ろうと思うのは人情であり、そうなれば一匹ごとに掘り下げたエピソードが作られることになる。必然的に、人間とポケモンの間のコミュニケーションが描かれる。それを回避することは、つまりポケモンを疎通不可能な撃退すべきモンスターとして扱うことだが、そうなればもはやポケモンではない。ゲームにおいて異質さと理解とのバランスを保っていたのはモンスターボールという境界だが、サトシのピカチュウはそれすら拒絶してしまった。そして、今やポケモンコンテンツの代名詞となったのは、そのピカチュウなのである。

 

 今――2022年。ポケモンに、かつての「虫捕りの虫」という冷淡ながらも熱情を誘う位置付けの面影はもはやない。ポケモンコンテンツは様々にメディア展開され、それぞれの種類のポケモンについて様々な角度から様々なエピソードが生み出されている。東日本大震災を受けて「POKÉMON with YOU」というコピーも作られた。原作のゲームさえ例外ではない。「X・Y」の頃から特に顕著に、ポケモンコンテンツ全体が「ポケモンと人間の絆」というテーマを強調している。ポケモンに信頼と愛情を寄せることへの言及は「赤・緑」の頃からあったとはいえ、ポケモンコンテンツが社会に浸透するにつれて、ポケモンはますます人間らしくなっていく。人間との違いは不思議な力を持つことと、全体の傾向としてなぜか人間に対してうっすら好意的であるらしいことくらいだ。

 だが、それならこうは考えられないだろうか。――いっそ、人間でよいのではないか。絆を結ぶなら、同じ人間であるに越したことはないのではないか。人間も未知なるものとして目に映ることがあるのだから、対象aの担い手さえモンスターである必要はないのではないか――と。我々は結局のところ人の形をしたものしか愛せないのではないか、と。

 要するに、「ラティアスラティオス」はこの懸念をポケモンファンに暴露してしまったのだと筆者は考える。性器以前の性衝動と死の欲動を再結合させたこの映画は、『千と千尋の神隠し』の裏でカルト的な人気を博した。そして興行成績に表れないこの映画の評価を知った制作側の誰かが、ポケモンを人間に近づけ、人間をもっと掘り下げて描くという方針を固めたのではないか。原作ゲームにおいてさえ逃れ得なかった、人間キャラクターの前景化の流れ――「プラチナ」のシロナ、「ブラック・ホワイト」のN、「サン・ムーン」のリーリエ、「剣・盾」のダンデ――は、この『ラティアスラティオス』の時に運命づけられたのではないかと思えるのだ。

 ラティアスミュウツーのように人間の言葉を発しもしないし、人間臭い葛藤を表に出しもしない。ただ人間の少女の姿をするだけである。それだけで、ラティアスは史上最も愛されたポケモンの一つになった。このことは擬人化という操作が人間の認知に対して持つ絶大な効力と、その中でも特に視覚情報の占める大きな比重を表している。モンスターが、行動原理の異質さはそのままに姿だけ人間を――特に美少女を――模した時、それを見る人間の側の姿勢は、中身がモンスターだと分かっていても外見に引きずられて好意的になる。古今の物語に各時代の様式で描かれてきた美少女は生身の人間の姿よりもより一層、男女を選ばず受け入れられ、嫌われたくないという感情を誘う。内面は未知なままでも、美少女の外見が人間と接するためのインターフェースとして機能する。前節では人間の少女の姿が持つ不可知性がモンスターの力を借りて増幅されることを見たが、逆にモンスターが単なる対象a流動性の表象であることを超えて長期的に人の心に位置を占めようとするためには、美少女の姿を纏うことが合理的なのである。

 当然、ラティアスが最初にこの構造を発明したわけではない。現代日本文化を覆う美少女キャラクター文化浸透の流れの中に彼女もいる。

 2000年代以降は、日本文化の多くのシーンで美少女キャラクター表現が急速に市民権を得てきた時期でもある。まずは若年向け小説との合流によって、次にそのメディアミックスの成功によって、漫画・アニメ・ゲームで培われてきた外見・内面両方の美少女描写技術が、その顧客層の裾野を広げ始めた*35。並行して、少年漫画やBLを通じた女性のサブカルチャー愛好者の可視化があり、同人ゲーム派生コンテンツのヒットやボーカロイドの出現を発端とするクリエイター層の拡大がある。特にボーカロイドのブームは、言葉に「運び手」を与えることにいかに多くの人が飢えていたかを示す出来事であった。2007年以降はニコニコ動画の台頭により、コンテンツについての語りがさらに活発化し、その中でもキャラクターについての語りは広く長く拡散する傾向にあった。これらのことを受けて、シナリオの練り込みよりも優先的にキャラクターとその間の関係を見せることでファンダムを刺激し、口コミを利用して作品を売るというコンテンツ発信モデルが確立された*36ポケモンもそこから逃れることはできない。

 また、キャラクター造形の深化には技術的な要因もある。ゲーム機のグラフィック関連技術が発達し、その性能を見せるためにもフィールドやキャラクターを高い解像度で描かなければならなくなった。「X・Y」以降は3DCGであり、「サン・ムーン」以降は人物の頭身が現実の人間に近くなる。それは、ポケモンや人物の動作を作り込むために、その背景にある生態や人格を細かく設定する必要性が高まったことを意味する。その頃になると、子供時代に「赤・緑」をプレイし、その後もポケモンのファンであり続けた人々が製作者側に参加するようになってもいる。過去作の登場人物がファンサービスとして登場することも増え、その際には時として、ファンダムで培われてきた人物解釈が公式に逆輸入される。スマホゲーム「ポケモンマスターズ」はその極北としてある。

 2000年代以降がそのような世相であったために、ラティアスが少女と同一化することによって映画という大舞台で見せた巨大な誘引力は、本稿で述べたような意義は十分に言語化されないまでも、ポケモン史に残る出来事として語られるようになった。「謎の少女、再び(迷宮)」が後世のポケモンコンテンツに及ぼした影響を因果関係として論証することはここではできないが、性衝動の対象としての少女像をポケモンで最初に真正面から描いたシーン群であり、故に虫捕り少年の時代を踏み出た最初の一歩ではあったと筆者は思うのだ。我々は「謎の少女、再び(迷宮)」に熱狂することによって、虫捕りよりも心惹かれるものがあると、自分と同じ人間以上に未知なるものはないと、ポケモンたちに宣言したのである。

 

 しかしながら、この人間の前景化とポケモンの人間化は、単にポケモンの立場を奪っているというわけでもない。人間キャラクターとポケモンの間には依然として役割の棲み分けがある。それはやはり、ポケモンがそのモンスターとしての性質により「無数にいる」という点に求めることができる。人間キャラクターとしては公式によって造形された個人が売り出されるのに対し、ポケモンはあくまで種として売り出され、我々一人一人が関係を結ぶ個体は全て別々である。人間キャラクターが「それぞれの読者にそれぞれのそのキャラ」という形で受容されるのとも異なり、、という、あたかも図鑑で見て名前と姿だけは知っている生き物のような距離にいる。同時に、出会えたならきっと良い関係を結べるだろうという確信のようなものもある――これが人間に近づいたことのもたらした結果だ。そしてポケモンは自然環境の擬人化であるが故に、我々の生きる現実でもそのようなものに出会えるかもしれないという錯覚――あるいは希望――を絶え間なく生じさせるのだ。

 人間の未知さに対する期待はともすれば加齢と共に目減りしていくところ、ポケモンはモンスター性によってそれを補い、さらに「理想的な人間」の側面をも持つことによって未知さをポジティブに捉えさせる。作中の人間キャラクターたちの生き様は、そのようなポケモンとの関わり方の見本としても機能している。ポケモンコンテンツは、通信ケーブルを実装した「赤・緑」の時から常にそうであったように、作中世界だけで閉じることがなく、必ずどこかで我々を我々自身の人生の冒険へと差し戻すのである。それは初代アニメで首藤氏が温めていた最終回の構想*37にも通ずるところがあるが、現在の我々にとってはポケモンも既に現実に根付いた現実の一部であるという点だけが違っている。希望を蘇らせる装置を堂々と現実の内に持てるということは、虚構として分離するよりもむしろ幸福なことではあるまいか。

 

 本稿では『ラティアスラティオス』のラストシーンにおけるカノンとラティアスの二重性が観客に引き起こす心理的効果から始めて、前‐性器的な性衝動の性質を手掛かりとしてポケモンと人間の関係を議論した。それをもとに『ラティアスラティオス』の迷宮のシーンを分析し、人間に不安と一体の原始的な快楽を生じさせる複数の要素が組み合わされていることを見た。そして最後に、この映画の人気が、ポケモンの人間化と人間の前景化という意味でポケモンコンテンツの転回点であった可能性について記述した。これらの議論は精神分析文化人類学の視点からなされたものだが、本稿をきっかけにこの映画についての語りがいま一度活性化し、多くの観点から論考が書かれることを切に希望する。

 

『謎の少女、再び(迷宮)』。ポケモン史に忽然と現れた異端の傑作であり、現れるべくして現れた時代精神の具現である。そこにはポケモンコンテンツの本質と宿命が刻印されていた。謎の少女を追うことは我々自身の心の暗部を追うことであった。水の都の桟橋の上で性と死が原初の混淆を取り戻し、少年少女と心ある大人だけに世界の秘密が明かされる。世が続く限り、人を人たらしめているものに共鳴して、この映画は我々を迷宮へと導き続けるだろう。

 

 

*1:湯山邦彦劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』、東宝、1998. 07

*2:湯山邦彦劇場版ポケットモンスター 幻のポケモンルギア爆誕』、東宝、1999. 07

*3:矢嶋哲生劇場版ポケットモンスター ココ』、東宝、2020. 12

*4:湯山邦彦劇場版ポケットモンスター 結晶塔の帝王ENTEI』、東宝、2000. 07

*5:湯山邦彦劇場版ポケットモンスター 水の都の護神ラティアスラティオス』、東宝、2002. 07

*6:‌『2002年劇場版ポケットモンスター「水の都の護神ラティアスラティオス」「ピカピカ星空キャンプ」ミュージックコレクション』、メディアファクトリー、2002. 08

*7:他に、全編を通した描写の丁寧さや伏線の張り方の自然さも高く評価されている。例えばunlimited blue text archive「劇場版ポケットモンスター 水の都の護神ラティアスとラティオス」を参照のこと。

*8:‌「帽子をかぶっている方がカノン」という見分け方はこの場面に限りできないこと、‌園田英樹大橋志吉『THIS IS ANIMATION 劇場版ポケットモンスター 水の都の護神ラティアスラティオス ・ピカピカ星空キャンプ』(小学館、2002. 08)においてラティアスと明言されたという事実はないこと、サントラ25番の曲名が「カノン」である理由には複数の解釈が可能であること、を改めて強調しておきたい。ただし、「それまでのシーンで、ラティアスの登場にはピカチュウが、カノンの登場にはサトシが先に反応していることに則れば、キスをしたのはラティアスである」という指摘には一定の説得力がある。

*9:湯山邦彦劇場版ポケットモンスター 幻のポケモンルギア爆誕』、東宝、1999. 07

*10:ポケットモンスターXY「終わりなきゼロ!また逢う日まで!!」』、テレビ東京、2016. 10

*11:ポケットモンスター 22話「ケーシィ ちょうのうりょくたいけつ」』、テレビ東京、1997. 08

*12:pixiv『#2 わたしが空に溶けないように【カノンの場合】 | アルトマーレの話 - 操刷法師の小説シリーズ』、https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15811534, 2022.04閲覧

*13:もっとも、このような配慮が必ずしも望ましいとは筆者は考えない。この種の配慮は、子供の性的関心に不安を覚える親の存在を前提としており、その不安はしばしば子供の性衝動や性的表現の影響への誤解を温存して抑圧を生むからである。

*14:高山文彦『「少年A」14歳の肖像』新潮社、2008. 04

*15:Yahoo!知恵袋『乳首の謎。真剣な内容です。前からずっと疑問に思っている事があります。それは乳首…』、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1442853809, 2022. 04閲覧

*16:アネドラ『初めてドライオーガズムに達成する方法』、https://www.anedry.jp/first-dryorgasm, 2022. 04閲覧

*17:向井雅明『ラカン入門』、筑摩書房、2016. 03

*18:自慰に用いられる創作物のジャンルで言えば、「メスイキ」「NTR」「同一人物姦」「サイズフェチ」「スライム娘」などは知覚のオーバーフローの性質を顕著に持つ。「リョナ」を含めなかったのは、猟奇行為の快楽は生物の体に凶器を入れる瞬間に頂点に達すると筆者は考えるが、リョナではその瞬間が描かれないことが多いからである。リョナとサイズフェチの交点と相違点については稿を改めて論じたい。

*19:社会に出ること、未来へ賭けることも一種の大きなものへの没入であることからすれば、生の欲動と死の欲動は根底では同一のものではないか?

*20:男性が陰茎以外の性感を求める動機自体が、多くの場合、射精の性感を超えた快楽によって忘我の体験をすることである。ただし、精通後の男性が陰茎と前立腺の性感を区別するには多少の努力を要する。前立腺の性感の高まり方が陰茎のそれほど急峻でないことに加えて、陰茎への刺激は肛門括約筋をはじめとする骨盤底筋群を反射的に収縮させるため、元から前立腺の性感と混じり合っているからである。

*21:ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史』、講談社、2004. 05

*22:笠井潔『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』、南雲堂、2008. 12

*23:宮本茂・菊田洋之・田中顕『小学館版学習まんがスペシャル ポケモンをつくった男 田尻智』、小学館、2018. 05

*24:中沢新一ポケモンの神話学 新版:ポケットの中の野生』、角川書店、2016. 10

*25:本節の議論は同書に負うところが非常に大きい。最初の出版は1997年に岩波書店からだが、その後2004年に新潮社から文庫版が、2016年にKADOKAWAから新書版が出ている。新書版のための序文で、ポケモンGOの時代の到来を「赤・緑」が持っていた普遍的な魅力の帰結と捉え、褒めすぎなまでに好意的に語っている書きぶりには筆者も一ポケモンファンとして好感を覚える。

*26:森見登美彦ペンギン・ハイウェイ角川書店、2012. 11

*27:ハートゴールドソウルシルバー」で2009年の配信イベントを経た主人公とシロナを除く。とはいえ、シント遺跡イベントを以て「タマゴの生成過程が既知になった」とも言い難いだろう。

*28:筆者は特に、ポルノグラフィを子供が見ることを制限するべきかどうかという議論において、このことがもっと取り上げられるべきだと考えている。不道徳でグロテスクな欲望であるほど、それを可視化して名前を与えることによって理性を働かせる助けになるのではないか。フィクションなら悪影響がないという典型的な擁護論を超えて、好ましい影響さえあるとさえ言いうるのではないか。これについては別の機会に詳細に論じる。

*29:ただし、シンボルエンカウントが本格的に導入され、また製作者であるゲームフリークが広く注目を浴びるようになった2022年現在では、「赤・緑」では妥当だったこの分析が今も適切かどうかということは再考すべきであろう。

*30:そもそもゲームや映画がフィクションであり我々との間をスクリーンによって隔てられているということ自体が、そのこと自体に特有の性的誘引力を持っているように思われるが、ここではその点には踏み込まない。

*31:湯山邦彦劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』、東宝、2017. 07

*32: ‌『劇場版ポケットモンスター 水の都の護神ラティアスラティオス パンフレット』(東宝、2002. 07)にラティアスラティオスのモデルがイルカであると述べられている、という説があるが、事実でない。ただしイルカは、人間との共通点が多く「別種のヒト」のようにさえみなされているにもかかわらず、海棲という一点が異質さを決定的にしているという点で、本節で述べたような機能を担うに相応しい。例外なく人語を解するポケモンの中でもとりわけラティオスの図鑑説明でその能力が特筆されていることは、精神に関するより深い特質があることを示唆する。

*33:本節と前節で議論した性衝動の性質は男性のそれに偏っている。女性の性衝動から見た「謎の少女、再び(迷宮)」論が書かれることを強く待望する。また、楽曲としての「謎の少女(迷宮)」「謎の少女、再び(迷宮)」「カノン」及びそれらとの関連が推測されるcobaの楽曲「花市場」について、音楽論的な分析がなされることにも期待する。

*34:WEBアニメスタイルCOLUMN『シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家 第210回 幻の『ポケモン』映画第3弾……消えた』、http://www.style.fm/as/05_column/shudo210.shtml, 2022. 04閲覧

*35:電ファミニコゲーマー『【佐藤辰男×鳥嶋和彦対談】いかにしてKADOKAWAはいまの姿になったか──ライトノベルの定義は「思春期の少年少女がみずから手に取る、彼らの言葉で書かれたいちばん面白いと思えるもの」【「ゲームの企画書」特別編】』、https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/181228, 2022. 04閲覧

*36:ここに概観したゼロ年代オタク史が極めて簡略化された観念的な図式であることをお許しいただきたい。筆者が実体験として知っている範囲だけでも、あまりにも色々なことがあった。

*37:WEBアニメスタイルCOLUMN『シナリオえーだば創作術 だれでもできる脚本家 第184回 『ミュウツーの逆襲』のその先へ』、http://www.style.fm/as/05_column/shudo184.shtml, 2022. 04閲覧